【通りすがりの短編小説】NHKマイルカップ

青いボールを蹴りながら走る少年が目の前を通り過ぎていく。

少し向こうからは子供達の悲鳴とも歓声ともつかない甲高い声が響き渡っている。

和也は座るベンチの固さにお尻が痛くなり少し座る位置を変えるために腰を浮かべた。

「どこに行くの?」

目の前にある鉄棒で逆上がりの練習をしていた和生は、鉄棒にぶら下がるような体勢のまま、和也に聞いてきた。

「どこも行かないよ。大丈夫だから練習続けていいよ。」

和生はさっきから練習を終わりにして帰りたそうにしているが、まだ練習の成果は何もない。それにまだ家に帰るわけにはいかない事情もある。

和也はスマホを取り出して時計を見た。

午後の2時30分を少し過ぎたところだった。まだ家を出てから1時間しか経っていない。

こういう時は時間の流れが遅いものだ。和也は昨夜の出来事を思い出していた。

 

昨夜、突然菜生が高熱を出した。小学校にあがったばかりの娘は熱にうなされて苦しそうにしていた。

そしてしきりに「ナオ、頭痛い」と繰り返し訴えていた。

そんな娘の容態を気にして、和也は妻の伽耶とともに眠れない夜を悶々と過ごした。

そして夜が明け、朝一番で病院に連れていった。医者にみせたところ菜生は扁桃腺が腫れていて、そのせいで熱が出たのだろうと言われた。

頭が痛いというのも高熱が原因で、熱が下がれば頭が痛いのも良くなるはずとのことだった。

薬を与えて安静にしていれば熱は下がるとのことでとりあえず一安心した。

だか、昨夜からほとんど寝ないで看病していた、あまり体が丈夫ではない伽耶のことが今度は気になった。和也は一晩ぐらいの徹夜なら大したことはないが、伽耶は相当疲労がたまっているように和也には思えた。

だから昼食を食べたあとは和也は和生を連れ出して公園へと来ていた。

小学5年生になったばかりのわんぱく盛りの和生が家にいると騒がしくて伽耶も菜生もゆっくり寝ていられないだろうという和也なりの配慮だった。

そうして家を出たものの特に行くところもなく、コンビニでお菓子とジュースを買って向かったのが、今いる自宅の近所にある公園だった。

各種遊具のほかにサッカーができるグラウンドがある割と広めの公園だった。

今日は土曜日ということもあり、公園内には友達同士で遊びに来ている子供たちや、和也たちと同じように親子で公園に来ている人たちが大勢いた。

公園に行くことにしたのは、和生が来週学校で鉄棒の逆上がりのテストがあるという話を昨日の夜にしていたことを思い出したからだった。

和生に公園に行こうと言うと「うん、わかった」と嫌がることもなかった。

そして公園に到着しさっそく鉄棒の練習を始めると、和生もやる気を出して練習を始めた。和也は横でそれを補助しながらアドバイスをして練習を手伝った。だがすぐに上達するものでもなく、いつまでたっても和生は同じ失敗を繰り返し続けた。

和生はいくらやってもまったく逆上がりができないので、だんだんとやる気を失っていった。そしてやがて練習自体に飽き始めた。

それを和生の態度で感じ取った和也は真面目に練習するように軽く窘めた。

すると和生は少し不貞腐れた様子で和也を見た。

「ならお父さんやってみてよ」

和也はさっき和生に教えているときに、自分が小学生のときは逆上がりくらい簡単にできたと自慢気に話していたことを思い出した。

鉄棒なんか小学校を卒業してからやったことがなかった和也には、逆上がりができるかなんて全く自信がなかったが、偉そうに自慢した手前、やらないなんて言うことはできなかった。

鉄棒を両手で力強く握りしめ、体を引いて勢いをつけて足を振り上げるが、体は思うように持ち上がらず、力なく地面に足と腰から落ちていった。

「あたっ、いたたっ」

地面に激しく打ちつけた腰のあたりを擦りながら立ち上がると、横で和生がニヤニヤした顔で和也のことを見ていた。

「小学生以来久しぶりにやったんだからしょうがないだろ」

何か言われる前にと先に言い訳を言ってみたが、和生のニヤニヤはそれでは収まらなかった。

和也は腰を押さえながら鉄棒の近くにあったベンチに腰かけると、まだニヤニヤしている和生に向かってムッとしながら言った。

「テストでこんなお父さんみたいな無様な姿友達に見せたくなかったらしっかり練習しろ」

和生はそれを聞いて嫌そうな顔をすると、軽く口を尖らせながら小声で「やればいいんでしょ」と言いながら鉄棒に向かって逆上がりの練習を再び始めたのだった。

 

伽耶を少しでも休ませるためには4時くらいまでは家に帰るわけにはいかない。そうなると少なくともあと1時間半くらいは時間をつぶさないといけない。

「まだ家には帰らないよ」と伝えるが、すでにやる気が失せている和生は逆上がりをせずにしばらく鉄棒にぶら下がるようにしていた。

だがしばらくすると和生は鉄棒から手を放しスタスタと和也が座るベンチのほうに近づいてきた。そして和也の隣に座ると、先ほどコンビニで買ったものが入っているレジ袋をあさり始めた。

「さっき買ったお菓子食べるよ」

和也がそれに返事をする前に和生はすでにレジ袋からお菓子とジュースを取り出していた。

返事をする前にもう出しているじゃないかと思ったが、あえてそれを口には出さず「いいよ、食べなよ」とだけ言った。

それを聞いた和生は和也にお菓子の袋を差し出した。

「開けて」

無言で受け取った和也はお菓子の袋を軽く開けると和生に差し出した。

それを受け取った和生は、お菓子を黙々と食べ始めた。

お菓子とジュースを飲み食いした和生は満足したのか、そのままベンチでくつろぎ始めた。

「もう練習しないのか」

和也が聞くと、和生は頭をゆっくり横に振った。

「今は休憩中」

和也はもう何を言ってもこれ以上練習はしないだろうと諦めて「そうか」と一言だけ答えた。

 

しばらくすると和生がトイレに行くと言ってベンチを離れていった。

和也はスマホを見ると、時間はまだ午後3時を少し回ったくらいだった。

和也はそのままスマホを操作すると、インターネットで明日行われるNHKマイルカップの出馬表を眺め始めた。

実はさっきコンビニ行ったときにスポーツ新聞を買うつもりだったが、生憎小銭しか持っていなかったため、和生に買ったジュースとお菓子の代金だけで手持ちが無くなってしまった。そのせいで新聞を買うことはできなかったのだ。

「今週はスマホで見た情報だけで考えるか」

そう独り言をつぶやいていると、いつの間にか戻っていたのか和生が横から和也のスマホを覗いている。

「また競馬?」

それを聞いた和也は少しムッとした感じになった。

「またって言い方はないだろ。お父さんの数少ない趣味なのに」

そんな和也の抗議を和生は無視しし、和也からスマホを取ると操作しはじめた。

「じゃあ、俺が決めてやるよ」

和也は和生からスマホを奪い返そうと手を出すが、和生はそれを器用にかわす。

「大丈夫、俺に任せておけって」

なにが大丈夫なんだと和也は思ったが、これで時間つぶしができるならまあいいかと思い直し、それ以上は逆らわず和生の気のすむままにさせておいた。

しばらくスマホの画面を指で上下させながら見ていた和生の手が止まった。

和也が和生の顔を見ると、スマホの画面を和也のほうに向けた。

「この馬にするよ」

スマホを受け取った和也はスマホの画面を見た。

 

"アレンジャー"

 

スマホの画面にはアレンジャーの名前が映し出されていた。

「また人気のない馬を選んだな」

和生はきょとんとした顔をしていた。

「人気がないとダメなの?」

「ダメというわけではないけど、勝つ可能性は低いかな」

和生は鼻の頭を掻きながら和也のほうを見た。

「でも、この馬でいいよ」

和也はふと、和生がどうしてこの馬を選んだのだろうと思った。

「和生はなんでこの馬がいいと思ったんだ」

すると和生はスマホの画面を指して言った

「だってここに"和生"って書いてあるじゃん、俺と同じ"かずき"だ」

和也はスマホの画面を見る。するとアレンジャーの騎手の欄にたしかにこのように書かれていた。

 

"横山和生"

 

それを聞いて、今度は和也がニヤニヤして和生の顔を見た。

「これは"よこやまかずお"って読むんだよ。菜生の"お"と同じ読みだ。だけどお前の名前は"かずき"だろ」

和生はそれを聞いて一瞬唖然とした表情を浮かべた。

そしてすぐにムッとした顔をした。

「別にいいだろ、同じ漢字なんだから。なんて読むのかなんて知らないし」

和也は笑いながら和生の頭をポンポンと軽く叩いた。

その手を和生は邪険に払いのける。

どうやら本格的に不貞腐れてしまったらしい。

「そう怒るなって。じゃあ今週のレースの本命はこの馬にするよ」

 

そして、スマホの画面に映し出されているアレンジャーの名前を丸く囲うように指でなぞった。

和也は和生のほうを見て、少し大きめの声で言った。

「じゃあ練習の続きしようか」

和生は和也のほうを見ようともせず返事もしなかった。

和也は苦笑を浮かべた。

スマホの時計を見ながら、あともう少しどうやって時間をつぶそうかと考えた。