【通りすがりの短編小説】羽田盃競走

自動ドアが開きビルの外へ出た。

時刻は20時をすでに回っている。周囲は暗闇に覆われ、そして顔に当たる夜風が冷たい。

ビルの前の通りは駅の方向に向かうポツポツとした緩やかな人の流れができているが、和也はその流れに逆らうように歩き出した。

今出てきたビルの中には和也が務める会社の本社が入っている。

半年前まではここが和也の勤務地だったが、今は部署異動となり、別の場所が勤務地となっているため、本社に来たのも半年ぶりだった。

そして人の流れに逆らって歩き出した先にある目的地は、半年前まで仕事終わりによく行っていた居酒屋だった。

住居兼店舗のその居酒屋は周囲に雑居ビルが立ち並ぶ一画にひっそりと存在した。

目立つ看板があるわけでもなく、一目見て営業しているのかはわからない。

ただ昔は店によく来ていた和也には、営業中であることは店の雰囲気からすぐにわかった。

入り口の引き戸を開ける。

店の中は左側にテーブル席が2席あり、右側にはカウンター席が8席ほど並んでる。

カウンター席の向かい側がキッチンになっている。

今はどの席にも客はいなく、店の中はカウンター席の上に設置されているテレビから流れるCMの音だけしかしない。

そのとき、カウンターの中から「いらっしゃい」という声が聞こえた。

和也には懐かしいその声は、この店の女将の声だった。

和也の顔を見た女将は、「まあまあ」と嬉しそうな声をあげる。

「お久しぶりです」

和也も嬉しさから声が少し上擦っていた。

「転勤になったって言ってたけど戻ってきたの」

和也は来ていたコートを脱ぎながら女将の質問に答えた。

「本社で会議があって今日だけこっち来てたんだよ」

「せっかくこっちまで来たから、ここのもつ煮込みは絶対に食べたいと思って」

女将はシワの目立つ顔をさらに皺くちゃにしながら満面の笑みを浮かべた。

「嬉しいこと言ってくれるね」

そう言うと女将は後ろを振り返り、そこにある冷蔵庫を開けながら言った。

「ビールでよかった?」

和也は軽く頷きながら「お願いします」と応えた。

和也は椅子に腰掛けて女将がビールと一緒に出してくれたおしぼりで顔を拭きながら聞いた。

「おっちゃんはいないの」

おっちゃんとはこの店の主であり、女将の旦那さんでもある。

そう聞くとさっきまでの満面の笑みが崩れ少し困ったような寂しいような顔になった。

「お父ちゃんは今入院してるのよ」

「肝臓にガンが見つかって先週手術して」

和也は予想もしてないことに困惑して「そうだったのか」と言うのが精一杯だった。

しばらく2人の間に沈黙が流れたが、女将はまた笑顔になって言った。

「でも手術はうまくいったからすぐに元気になるわよ」

「お父ちゃん、元気になったらまた店やるからそれまでおばちゃんがお店守るって約束したのよ」

「せっかく来てくれたのにゴメンね、今もつ入れるから」

そういってキッチンの方に移動していく。

まさかこの半年の短い間にこの店にそんな大変なことが起きてようとは思いもしなかった。

ただ女将夫婦は2人とも70才は超えているはずで、そういうことがあっても不思議ではない年齢だ。

「お待たせしました」

そう言って目の前に、和也念願のもつ煮込みが置かれた。

大根や人参の野菜と、蒟蒻や揚げ豆腐、そしてもつが味噌ベースのスープでしっかり煮込まれたものに、白髪ネギがトッピングされたこのもつ煮込みはシンプルながらも旨みがしっかり詰まった一品だ。

一口二口と食べる。以前と変わらない最高の美味さだった。

「美味しい、とても美味しいよ」

それを聞いた女将はまた嬉しそうに顔を皺くちゃにして笑った。

もつ煮込みをあっという間に食べ終えた和也はビールを飲みながら女将に聞いた。

「店は今1人でやっているの」

「そうだよ、まあお客がそんなに来ることもないから何とか1人でもやれているよ」

たしかに駅前から離れた立地のため、以前からそんなに流行っている店ではなかった。

「でもやっばり1人だと大変じゃないの、おっちゃんの見舞いとかも行ってるんでしょ」

女将は顔の前で手をひらひらさせた。

「おばちゃんは見舞いは店が定休日の日しか行かないよ」

「他の日は息子の嫁が行ってくれてるから」

「おばちゃんは見舞いには来なくていいから店をやれってお父ちゃんが言うからね」

女将とおっちゃんの間には、名前は和也と漢字違いだが読みが同じ一也という息子がいた。

その一也はたしか獣医をしていたはずだった。

「でもお嫁さんがおっちゃんの見舞いに行ってくれるなら助かるね」

だが、女将は少し思うところあるような顔を一瞬したが、すぐに笑顔になって「そうね」と言った。

そのときサラリーマン風の二人連れの男が店に入ってきてテーブル席に着いた。

女将はいらっしゃいと声をかけてから、カウンターの中で接客のための準備を始めた。

和也はカウンターの上に置かれたスポーツ新聞を手に取り広げた。

パラパラとめくって見ていると競馬欄に明日大井競馬場で行われる羽田盃の出馬表があった。

そういえばおっちゃんも競馬が好きで、特に地方競馬がお気に入りだったことを思い出した。

そして地方競馬で行われる交流競走が中央の馬たちの草刈場と化していることを嘆いていたことも思い出した。

嘗てのハイセイコーのように地方から逆に中央競馬へと挑んでいく馬が現れることを強く願っていた。

今年から羽田盃など南関東で行われる3歳戦の重賞が中央に解放されたことを、おっちゃんに聞いたらなんて言うだろうなと和也は思った。

そんなことを考えながら和也は、おっちゃんの願いを託すように一頭の馬の名前に指で丸をつけた。

 

"マッシャーブルム"

 

店の壁にかかった時計を見る。もうすぐ21時になりそうだった。明日のことを考えたらもう帰ったほうがいいのかもしれないが、今日はもう少し女将と話をしていきたいと和也は思っていた。